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第3話

Author: 伊桜らな
last update Last Updated: 2025-09-22 14:43:16

翌朝十時、東京駅の改札口は人混みで溢れていた。雑踏の中、ざわめく足音や話し声が耳に遠く響く。私は人波をかき分け、懐かしい背中を探した。そして、視線の先に兄である橘英司がいた。

アメリカでの三年間が、彼を洗練された大人の男に変えていた。ダークグレーのスーツは仕立てが良く、肩幅もかつてより広く感じられた。だが、私に気づいた瞬間、彼の顔に浮かんだ笑顔は、子どもの頃と変わらない柔らかさだった。少しやつれた頬、疲れを滲ませる目元。それでも、英司の笑顔は私の凍えた心を溶かす陽だまりのようだった。

「美咲……」

彼の低い声が小さく呟かれ、私は思わず駆け寄った。英司も両手を広げ、私の肩を強く抱きしめる。その温もりに、涙がこみ上げるのを必死に堪えた。七年ぶりの再会。母の死後、孤独に耐えきれず泣き崩れた私を、黙って抱きしめてくれたあの日の記憶が蘇る。兄の存在は、私にとって最後の家族であり、唯一無二の支えだった。

だが、彼の表情はすぐに曇った。私の青白い顔、目の下の隈、やつれた姿に気づいたのだろう。英司は無言で私の腕を取り、タクシーに押し込むように乗せた。行き先は病院――私の体を心配した彼の判断だった。

タクシーの中、兄は私の手を強く握っていた。その手の力強さと温もりが、凍てついた心を少しずつ解かしていく。だが、胸の奥は依然として不安で埋め尽くされていた。哲也さんの冷たい言葉、沙羅の嘲笑、母を汚す手紙。それらが頭の中で渦を巻き、息を詰まらせる。

病院に着くと、検査室の無機質な空気が再び私を包んだ。消毒液の匂い、白い壁、機械の冷たい音。すべてが昨日の診察室を思い出させ、胸が締めつけられる。医師が検査結果を手に、静かに、だが重々しく告げた。

「橘さん、流産の危険があります。絶対安静が必要です。少しでも無理をすれば、胎児に深刻な影響が出る可能性があります」

その言葉は、雷鳴のように私の心を打ち砕いた。視界が揺れ、喉が締めつけられる。手に握った検査結果の封筒が、まるで鉛のように重かった。お腹の命を守るため、これから私は自分自身を厳しく律しなければならない。だが、その重圧は、私の心をさらに追い詰めた。

病室に戻ると、英司は椅子に腰を下ろし、拳を握りしめたまま私の話を聞いていた。手紙のこと、沙羅の告発、哲也さんの疑念――すべてを、震える声で語った。母が神宮寺夫妻を事故に見せかけて殺害しようとしたという手紙の内容。

沙羅の冷笑と、哲也の「証拠を出せ、さもなくば離婚だ」という冷酷な宣告。話すたび、胸の奥が締めつけられ、涙がこぼれそうになる。

「馬鹿げてる!」

突然、英司が声を荒げ、机を強く叩いた。その音が病室に響き渡り、私の肩が震える。兄の目は怒りに燃え、普段の穏やかさはどこにもなかった。

「どうして運転手が神宮寺家ではなく沙羅に手紙を渡すんだ? 賄賂に決まってる! こんな理不尽なこと、許されるわけがない!」

彼の怒りは、まるで嵐のように荒々しかった。拳を振り上げる仕草に、私は思わず顔を伏せる。兄の怒りは私の痛みを代弁してくれるものだったが、同時に彼の衝動が新たな火種を生むのではないかと恐れた。

「……ごめんなさい、兄さん。私、何もできなくて……」

声が震え、言葉がかすれる。自分の無力さが、胸を締めつける。

「……すまない、美咲。俺がもっと早く帰ってこれれば……お前をこんな目に遭わせずに済んだのに」

英司は悔しげにうつむき、声に深い痛みが滲む。その姿に、私の胸もまた痛んだ。だが、彼の声には力強さが宿っていた。

「でも、きっと、大丈夫だ。哲也は責任感のある男だ。お前が妊娠していると知れば、離婚なんて口にしないはずだ。おなかの子は、お前と哲也を繋ぐ絆だ」

その言葉に、暗闇の中に小さな光が差し込んだ気がした。お腹の赤ちゃんは、私と哲也の絆の証。

どんなに冷たくされても、この命だけは否定できないはずだ。

まずは婚姻を維持し、証拠を探すこと。それが、今の私にできる唯一の道だった。

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